大洲道路を通っていると一瞬その姿を現します。
私らも目的地が別にあり、大洲道路を通っていて何気に発見した場所です。
私も25年前からよく通っていた場所なんですが気が付きませんでした。
その少彦名神社の参籠殿がいい味だしてるんです。
なんとここワールド・モニュメント財団が主催する「文化遺産ウォッチ」にも登録されているんですよ!!
少彦名神社は、大國主命と共に國を作り堅めるため、伊豫の國入り道後温泉造営後南下し、菅田村西経塚の柊神社・天神社(当神社鎮座地)にて、永き年月蒼生の疾病を治療するため薬をうみだし、また祭事を斎行する。
ある日、命は三町程下った急流を渡って対岸に至らんとしたがのみこまれ常世國にいってしまう。土民達が亡骸を壺に入れ埋葬したと伝えられている。
天保14年(1844江戸時代)京都の小笠原通當によると「命は神去り給いて、菅田村天神社にて祭りそのところは御屋敷跡なり、川向こうの梁瀬山に御陵所有り今不入場なり」とあり、全国的にいろいろな説がありますが、いずれにしても当神社が「命」の亡骸の御霊を斎祭していると言われています。
全国に分布する少彦名(すくひこな)神社。中でも愛媛・大洲(おおず)地方は少彦名命の伝説やゆかりの地が数多く残されています。 少彦名命(すくひこなのみこと)は常世(とこよ)の国から訪れた小さな神様で、大国主神(おおくにぬしのかみ)と協力して国作りをしたとされます。「風土記」や「万葉集」にも見え、穀霊・酒造りの神・医薬の神・温泉の神として信仰されています。愛媛の湯元・道後温泉は彼らによって発見され、道後温泉本館横の「玉の石」には少彦名命が残したとされるクボミを見ることができます。 さてここ大洲少彦名神社は菅田町大竹地区にあり、少彦名命が終焉を迎えた地とされ、境内(簗瀬山)に埋葬したとされる御陵が山頂付近にあります。 藩政時代は藩主の命により「入らずの山」として、境内(簗瀬山)が秘密にされていたという歴史を持っています。社などが造営、整備されたのは近代に入ってからのことであり、現在の社の配置は肱川(ひじかわ)に面して山の斜面に沿って麓から大鳥居、参籠殿、拝殿、中殿、本殿(御陵)へと続いています。
昭和3年(1928)に地元有志により結成された梁瀬神社奉賛会によって建設された神社である。参籠殿内に残る寄付者名簿には、旧大洲藩主加藤家をはじめ、朝鮮半島での建築業で名を馳せた多田順三郎(ただじゅんざぶろう)、マニラ貿易を営んだ松井國五郎(まついくにごろう)などの大洲出身者のほか、木蝋に携わった村上長次郎、荘三など地元有力者などの名前も見え、当時繁栄していた養蚕、製糸、木蝋、貿易業に携わっていた人々によって支えられ造営されたことがわかる。
鳥居から歩いて数分で、こんな雰囲気のある石橋もあります
すごく癒されます。
参籠殿まで5分ぐらいで到着できます。
参籠殿は、昭和9年(1934)臥龍山荘を建築した中野虎雄の甥・中野文俊によって設計され、神社の参道途中の傾斜面に「懸け造り(かけづくり)」と呼ばれる特殊的な工法で建築された建造物である。懸け造り部分には、伝統的な貫工のほかに金属ボルトの使用といった近代的技術も積極的に取り入れられている。
また、上部の部屋はガラス戸が3面に連続して巡らされるなど、開放的な空間を演出している。
床の役9割が傾斜面に張り出したうえ、柱が長い所で13mにも及び、市内に残る懸け造りの中でも最大規模を誇る建造物である。
【現地案内板より】
しかし、永い時の流れの中で忘れられ、失われる危機に瀕していたこと念いから、2014年にワールド・モニュメント財団が主催する「文化遺産ウォッチ」に選ばれ、その修復・活用・保存への取り組みが本格化しました。そして大洲内外の多くの方々のボランティア活動や寄付、そしてワールド・モニュメント財団(米国:www.wmf.org)を通してフリーマン財団(米国)の助成支援を受け、少彦名神社参籠殿の修復(2014・2015年)が達成されました。
↓これは以前の柱を保管してる場所です。
相当傷んでたんでしょうね・・・
ここから目と鼻の先にも同じ名前を持つ神社(菅田町菅田)があります。その神社は少彦名命が滞在したと伝えられる場所で、古くから地区の皆さんによって管理されていますので併せて参拝してみてはいかがでしょうか。
こちらの天気は「ウエザーニュース大洲市」を参考にしてください。
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