香川県東かが市引田にある、「引田城址・城山展望台・引田鼻灯台」です。
香川県の東のほうに位置する場所で、近くに「東かがわ市大池オートキャンプ場」・「田の浦野営場」とかもあります。
引田城は、東かがわ市引田の北側に岬状に突き出した城山(標高82m)の山頂に築かれています。
引田城址 本丸
本丸は、引田の「町(マチ)」から最もよく見える位置にあり、城主の権力を示すのに適した場所です。
文献資料上、引田城に関わる記述がみえるのは、江戸時代編纂の軍記物語『南海通記』にある応仁年間(1476~69)に寒川氏が領したとあるのが初見です。戦国時代には阿波三好氏と攻防があり、引田城の城主は四宮氏、矢野氏など何度も変わりました。
戦国時代の終わりごろの天正15年(1587)に播磨国赤穂(兵庫県赤穂市)から豊臣秀吉の家臣である、生駒親正が讃岐国を治めることとなりました。生駒氏は讃岐国支配の拠点とする高松城と並行して、慶長年間(1569~1615)に西讃地方の支城として丸亀城、東讃地方の支城として引田城を築きました。
現在の引田城址には生駒氏が築いた自然石を積んだ野面積の石垣が残っているほか、建物の礎石やたくさんの瓦がみつかっています。この技術は、織田信長の安土城築城から始まり、信長・秀吉方勢力によって築かれた、織豊系城郭と呼ばれるものの特徴です。
高松城や丸亀城は城主が替わったことや市街地の開発のため改変されていますが、引田城址には築城時の石垣が残っており、石垣の年代の指標と成りうる貴重な城跡と評価できます。
上段の円形の石積みは、引田城址のある城山が大正12年(1923)に久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)の行啓予定地となったため築かれた展望台跡です。
城山一帯は、大将時代から昭和時代の初めに引田城山公園として展望台や遊歩道が整備されました。
現在の遊歩道は築城当時のものではなく、公園化されたときに整備されたものと考えられています。