今回は「東洋のマチュピチュ」と称されるマイントピア別子(東平ゾーン)です。
東洋のマチュピチュといえば・・・
兵庫県の竹田城(天空の城)を思い出すかもしれませんが、こちらは日本のマチュピチュと表されてます(笑)
大分県にある宇佐のマチュピチュも山の形、地形が似ている事から密かなブームにもなっています。
まさに天空都市といえそうな場所だったようです。
さて、ここに行くには、南からのルートと、新居浜市からアクセスする北ルートがあります。
多くの方は北からアクセスする方が多いと思うので、その説明を主に書きます。
東平の北(市街より)には道の駅マイントピア別子もありますので、そこに寄ってから、こちらに足を運ぶのをお勧めします。
道の駅からはシャトルバスも出てるので、運転に自信の無い方は利用するのもいいかも!
さてさて北側からのルートで国道11号線から県道47号線(新居浜別子山線)に入って登っていくとこんなループ道もあります。
のっけから心くすぐられます( ̄ー ̄)ニヤリ
きもちいいーーーーー
道の駅を過ぎ北上すると、こんな看板が左手に見えますので、こいつを入ります。
急に道が狭くなりますので気を付けて!!
さ~ここから酷な道が5キロほど待ち受けてますが20分の辛抱です(笑)
この先めちゅくちゃ道が狭くカーブが多い。
(四国在住のライダーにはこれぐらいの酷道当たり前なんですが・・・)
場所によっては車との対向もできないとこもあります。
因みにシャトルバスには先導車(ハザード付けて停車)がいるため手前で誘導してくれます。
が・・
一般車両は各自回避のため、山運転に慣れてない方に遭遇すると、突っ込んできます💦 私らもバックして頂きました。最後はお互い会釈や挨拶が必須!!メットの中ではごにょごにょ‥
ずっと道を上りつめて、東平につく手前で下り坂になってます。地味に腕に来ます(笑)
ここまでくればあと数分
到着!! 駐車場は広いです。
駐車場にとめ目につくのが、マイン工房と称される建物です。
これも当時のままですが、東平記念館のマイン工房として利用されている赤レンガ造りの建屋は、明治期は配電所、大正期は林業課事務所、その後は保安本部として活用されていました。
建設時期は、遠登志水力発電所、東平第三変電所が明治37年(1904)の完成であることから、それらと同時期ではないかと思われます。
マイン工房(旧保安本部建屋)から現在の駐車場へと続くコンクリート造りのL字型階段が残されていますが、この下には、第三通洞、日浦通洞を走っていた電車のホームがありました。
駐車場の反対側には、ドーンと産業遺産がお目見え。
東平索道停車場は、鉱山施設が集中していた東平集落の下部にあり、東平と端出場(黒石)を結ぶ主要輸送機関でした。
鉱石運搬はもちろん、日用生活品や郵便物、新聞もこの索道で輸送されていました。鉱石は、隣接する貯鉱庫から搬器に移され、端出場へと運ばれていました。
現在、赤レンガ造りの東平索道停車場の遺構があります。
これで満足して帰る方も多いでしょうが、せっかく来たのだから散策してみるのをお勧めします。
別子銅山の歴史は、江戸時代・元禄3年(1690)、四国山地の海抜1300mの旧別子の山中から瀬戸内海の四阪島まで新居浜市を縦断する距離約40kmという広大な範囲に及びます。
赤石山系の銅山峰南斜面で露頭が発見されたことに始まります。
翌年から住友により採掘が開始され、昭和48年(1973)の閉山まで283年間で、坑道の総延長は約700Km(東京-岡山間)、採鉱場所は海面下約1,000m、総出鉱量は3,000万t、産鉱量は約65万tに達し、世界有数の産出量を誇った時期もあった日本三大銅山の一つです。
山頂から掘り続けられた別子銅山は次第に中心しを下へ下へ移していきました。
ここ東平(とうなる)は標高750m前後の山中にあり、大正5年(1916)から昭和5年(1930)まで別子銅山の採掘本部が置かれた場所です。
東平地域には銅山関連施設や生活関連施設が整備され、最盛期には5,000人余りもの銅山関係者とその家族が住み、山の町として賑わっていました。
昭和43年(1968)に東平杭が休止され、無人の地となり、山々も緑に還ちましたが、今なお残る産業遺産に当時を偲ぶことができます。
「別子は住友第一の財本」として一貫して住友による経営が行われてきましたが、その歴史は、決して平坦なものでなく、江戸時代の遠町深鋪や大災害、明治の新政府による没収の危機や煙害問題などの幾多の苦難に見舞われながらも、英知を集め、また諸外国から積極的に先進技術を学び、採掘・輸送・製錬の近代化を図るなどにより事業を拡大してきたというものであります。
「現地案内板より」
鉄道が通ってた案内板とかもあります。
あんなとこ通してたんや~
さてさて下に降りる階段ですが、廃墟の左側から回れ込めます。
ここは、当時トロッコを通して、いろんな物を運んでいたみたいですね。ここが私にとってメインな場所 東洋のマチュピチュ感漂ってます
この日は霧も出てたのでさらに神秘的でした
無料なので是非足を運んでみましょう!!
当時は女性はこの30キロを担いでたらしいです💦男性は45キロ・・
30キロって米一俵です・・農家の嫁ですが。。。腰が砕けました💦
ここは、当時使ってた、機械等が展示されていました。
○東平にゆかりのある鉱山運搬機展示場
東平は標高750m前後に位置し大正5年(1916)から昭和5年(1930)まで別子銅山の採掘本部が置かれた地域で、最盛期には5,000人に近い人々が暮らしていた「鉱山の町」でした。
明治35年(1902)に東平・東延斜杭底を結ぶ「第三通洞」、明治44年(1911)に東延斜杭底・日浦を結ぶ「日浦通洞」が貫通し、この路線を走る電車により新居浜地域(東平)と別紙山地域(日浦)が結ばれるなど、東平は別子銅山に係る交通輸送の重要な拠点でもありました。
昭和43年(1968)の東平杭終掘に伴い、東平は、一時廃墟と化し無人の地となりましたが、昭和63年(1988)の「銅山の里自然の家」や平成6年(1994)の「東平記念館」の建設により、今、再び注目されるようになってきました。
ここに保存・展示しております「かご電車」などは、住友金属鉱山株式会社別子事業所のご好意により寄贈を受けたものです。
鉱山の町として栄えていた東平の華やかな時代を偲ぶ貴重な資料を、平成15年4月1日、新居浜市と宇摩群別子山村が合併し、新生・新居浜市が誕生したことを記念し整備しました。
この機械・・風情があってぞくぞくします💛
○スラッシャー
シールド採鉱法で掘り取った鉱石をかき寄せるスクレーバーの電動機です。
シールド枠に取り付けつために、モーターとワイヤードラムが縦に配列された独特の形をしています。
使用する場所や長さによって、5~30馬力のおのがありました。
動力には圧縮空気を使ったものもありました。
広場駐車場までバイクで行けます。
広場は砂利ですので気を付けて。
広場の奥には小さな滝も、水もキレイです。
広場からは歩きです。
整備された道で、歩きやすいです。
森林浴を楽しめます。
住居跡らしき塀も・・・
8分ほどあるけば、また広場にでます。
発電所や火薬庫、第三坑洞などあります。
広場の写真はありませんが、当時はこんな感じに建物があったんでしょうね。
○東平採鉱本部跡
採鉱の中心は第三通洞の八番杭道準と九番杭道準に移行しつつあったので、第四通洞、大立杭の完成を機会に、大正5年(1916)、採鉱本部を山頂に近い旧別子の東延から中腹の東平(第三地区)に移した。
採鉱本部の建物は第三通洞前に暗渠を築き、その上に二階建で建築された。
採鉱本部前には棚がめぐらされ、その内には火薬庫、機械修理工場、木工場も設けられた。
採鉱本部は、昭和3年(1928)に選鉱場、調度課販売所、病院、土木課、山林課、運輸課、娯楽場、接待館などの中枢機能が集積していた東平地区に移転した。
そして、採鉱本部の建物は東平倶楽部になった。
採鉱本部は、昭和5年(1930)に東平から端出場に移された。
『現地案内板より』
こんなに建物があったんですね・・
○第三変電所
広場から左奥に佇んでいます・・ この広場からの眺めは圧巻です
ここらは赤松が沢山ありますが、植林を行ったとのことなので植えられたものかもしれませんね
第三変電所は、第三通洞がある第三集落に明治37年(1904)9月に建設されました。
そして、東平杭閉杭になる少し前の昭和40年(1965)まで61年間使用されていました。
第三というのは三番目というのではなく。第三という地名からついたものです。
赤煉瓦造りの建物は、現在も概観をとどめながら残されています。
手前の基礎がある部分が発電所だったんでしょうね、奥は作業員の部屋かな?
また、東平で当時のまま建物が残されているのは、この第三変電所と採鉱本部(現在はマイン工房として利用されています)だけですが、内部までそのままで残されているのはここだけです。
でも、当時の写真が無いのは残念です。
おくどさんがありました。
その隣は居間だったんでしょうね・・
ここは二階です。
2階の壁に若気の至りがあったので晒します。
けしからん!!
自ら落書きしました!って残してる不届きものです。
これも唯一当時の碍子(がいし)です
ちなみにこんなものもありました、懐かしい(笑)
飲み口を小さな缶切りで二か所開けて飲むやつです!!知ってる!?
変電所の反対側に火薬庫がありました。
○火薬庫
火薬庫は明治45年(1912)に旧第二採杭杭道(鉱床を探すための杭道)を利用して設置され、昭和43年(1968)までの56年間利用されました。
ここを火薬庫をして選んだのは、第三集落周辺の岩盤が固かったことも理由の一つでした。
火薬庫の中に爆薬庫、普通火薬庫、火工品庫を設置し、杭道掘削の発破作業に使われるダイナマイトを保管していました。
火薬庫の構造は、万が一爆発事故などがおこったときに備えて爆風が直接出ないよう鍵穴状に掘削されていました。
また出入り口も写真のように横に掘られています。
『現地案内板より』
ここ、すんごい冷気がくるんです。怖い程・・・
フラッシュ炊いて撮ってみると・・・(;^_^A こっ・・こわい・・
因みにサチコンヌは余り近づけませんでした
こちらが第三鉱洞・・・・トラック!?
これはその反対側です。
トラックはここから入れてるんでしょうね・・
下の滝があった広場までつながってました。(注意:通れません)
いろいろ歩き回って、結局一時間半滞在してました!
ここから、下山するもよしですが。
県道まで出て、南の山へ登るのもおすすめします。
「天空のコーナー」や ぐるっとまわって川之江方面に「翠波高原」「具定展望台」もあります。
またこの道も所々狭い場所がありますが、交通量も少なく楽しめる道でしたよ
こちらの天気は「ウエザーニュース新居浜市」を参考にしてください。
今回もなかなかの酷道(キレイな部類)
by さちこんぬ
夫婦・主婦・女性ライダー応援サイト
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